元活字中毒主婦の身辺雑記

日常の細々したことなど。

家族のことをつらつら思う。特におちはないです。

「東大院卒・TOEIC満点ー中学3年の夏、僕は中卒で大工になるはずだった...」という見出しをみて思い出したこと。私の家族の話。

 

私の父母は高校の同級生だ。生徒会で一緒に活動したのが縁で付き合うようになったらしい。生徒会長に不良が立候補したため、やつを当選させてはまずいということで、対抗馬として担ぎ出されたのが父。演説のために壇上に上がると大歓声が上がったそうだ。「なんかね、男子までおもしろがって、愛してるよ〜とか声かけて。すごく盛り上がったよ」と母。そういう母は学年のマドンナ。昔の青春映画みたい。今でいうところのリア充ってやつだ。

 

高校卒業後、実家がそれほど裕福ではなかった母は就職、父の家も貧乏だったが父は司法試験合格をめざして東京の私大に行った。大企業で重役秘書をしていた姉のコネで、幹部子弟向けの寮に特別に入れてもらったそうだが(そうでもしないと下宿の費用がなくて進学できなかったのだろう)、寮生全員がお坊ちゃんという状況はかなりつらかったようだ。結局、目指していた試験は受験すらせず、それでも東京でメーカーの内定をとった。ところが祖母から「この子は”かかり子”(親の面倒をみるための子)だから」と内定を反故にされ地元の市役所に就職することになった。

 

一方、母は高校で学校推薦を受け、東証一部上場企業にトップで合格。新入社員代表として挨拶する写真が残っている。会社の人に可愛がられ楽しく仕事をしていたことは、当時の他の写真からもよくわかる。母は結婚後も働き続けたが、つわりがひどく辞めざるを得なかったらしい。ちなみに父の両親と一緒に住む完全同居だ。職工の祖父と保険外交員の祖母は悪い人ではなかったが、農家出身の古い価値観を持っていて、多くの人が集う(祖父が句会を主催していた)開放的な母の実家とは全く家風が違った。

 

私が物心ついた頃、父は一時期、精神を病み職場に行けなくなった。すぐに良くなったが、その経験自体が父には傷になった。私が小学生の頃、両親は「こんなはずじゃなかった」という思いを身にまとっているようだった。結局、父は定年まで勤め上げ、母は、おおむね専業主婦として過ごし、祖父母、そして父を看取った。

 

二人は不幸だったか? そうでもないだろう。でも、もしも実家が裕福だったら、本人が精神的にもっとタフだったら、産休育休がある時代だったら、また違った人生があったのかもしれない。

 

その二人の子供達の来し方だが。弟二人はどちらも学力が高かった。上の弟は「こんなに頭の良い子は、教師生活30年で見たことがない」といわれたし、下の弟も学区数千人中一桁の成績だった。でも、二人とも良い学校や良い会社への野心はなかった。とりあえず大学へは進学したが、いまはどちらも職人として働いている。もしかしたら仕事がつまらないとぼやきどうしだった父が反面教師になったのかもしれない。本人達からは全然違う関係ないって言われるかもしれないけど。身につけた技能を生かして自分のペースで生きている彼らを見ていると、良い学校を出て名のある企業でサラリーマンとして生きるより楽しそうだ。

 

 

赤坂ナイトクラブの光と影―「ニューラテンクォーター」物語

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下の弟は職人になるための資金稼ぎに、短期間ですが高級ナイトクラブで黒服のバイトをやったそうです。けっこう向いてたようで「この業界に本気で入らない? 店一軒まかせるけど」とくどかれたとか。「金のこと考えたらそのほうが儲かるし、ちょっと気持ちが動いたけど、どうしても今の仕事がしたくて断った」と言ってました。

 

 

grisella.hatenablog.com

 

上の弟は海外へ行って、もうすぐ二年です。この春には新しい店をまかされると言ってたけどうまくいってるのかな。上記エントリーは修羅の国北九州での幼い日の思い出。