元活字中毒主婦の身辺雑記

日常の細々したことなど。

上京して息子に会ってきました

週末は息子のところに行ってきました。新学期が始まったせいか、かなり調子が悪く、自分のパーソナルスペースであるアパートに私という他者がいるだけで相当きついようでした。髪は伸び放題だし、スニーカーはぼろぼろだし、本当は散髪にいったり買い物したり冬物をクリーニングに出したりさせたかったけれど到底無理でした。結局、私は掃除や洗濯をしたほかは、アパートを出て買い物をしたり近くの図書館で時間を潰したりして過ごし、土曜の15時過ぎに着いて日曜の13時過ぎにはアパートを出ました。近況を少し聞いたくらいで、あまり話もできませんでした。とりあえず授業だけは出ているようで休学は考えていないとのことです。「いつもはこれほど悪くない、お母さんが来たから悪くなった」とか言われて精神的に疲弊しましたが仕方ない。少しずつ日常生活が送れるようになることを祈ってます。

 

空港でスマホをいじっていると匿名ダイアリーに「母親やめたい」というエントリーがあがってて、なんか身につまされました。知的な遅れがないと発達障害は見逃されがちな気がします。息子の場合は、おとなしくて教室で人に迷惑をかけることがなかったし、学力が高かったので(まあ、頭がいい子はどこか変わってるものよね)的な扱いを受けてきました。家庭訪問時や、ちょっとしたトラブルの度に息子の特性を訴えてきましたが今ひとつ、いや全然理解してもらえませんでした。

 

正直、私自身が今なら発達障害といわれるだろうなという子でした。小学校低学年の頃「緘黙児」といわれたこともあります。スクールカースト的には「不思議少女」的立ち位置で、面白がられてお気に入り扱いされるかと思えば何か気に触ることをしたのかめちゃくちゃいじめられたり。でも通知表には「温厚な性格で人望あり」とか書かれて(先生はなにもわかってない)と思ったものです。そういうわけで学校等の公的機関にはあまり期待はしていませんでした。それでも学童や特別支援学級で働いたのは、そういったところに息子にとってなにかメリットがあるかもしれない、内情を知りたいと思ったからでもあります。学童は小学校入学時に入れましたが合わず一年もせずにやめました。特別支援学級も、特に専門知識や経験がある教員が担当するわけでもなく、教室での学習に支障がない児童に対応する体制はありませんでした。結局、自分自身の経験や、本などで得た知識で試行錯誤しながら、夫と共にここまで育ててきた感じです。

 

20歳になって初めて「発達障害でしょうね」と言われました。これからは相談できる人がいると思うとほっとしました。いまは息子に何をしてやれるのかわかりません。定期的に様子を見に行っているけれど、息子からしたら大きなお世話で、かえって調子を崩す元なのかもしれません。私が母親でいいのかな、私じゃなければもっと上手に育てられたのかなとは思うけれど、息子はかけがえのない存在です。私は自尊心が低く、自分が結婚するとか、まして子供を持つとか考えたこともないまま大人になりました。縁あって結婚して、思ってもみない人生を歩んできました。うまくいかないことも多く、もがくように生きてきましたが、振り返ってみて、子供二人を持てたことは私の人生の中で一番の収穫です。いまからもそう思えるように、もうしばらくの間、母親をやっていこうと思います。